20歳になるまえに、一人旅に出た。
「成人」の枠に収まらないうちに、自分を見つめたかったのかもしれない。
そのときのわたしは、自分がほんとうに何をしたいのか分からなくなっていた。
大学1年生でサークルばかりやる生活にも疲れ果て、いったん小休止しよう、と顔を出す頻度を少なくした。
絵を描く方面に興味があった。
それで、春休みのあいだ、イラストを描く教室のようなところで絵を齧ってみたりもした。
でも、なにかが違った。これをほんとうに一生やっていきたいんだろうか、という疑問が生まれてしまった。
いや、どんな分野でもそう思う時期ってあるだろう。そう思って、ひとまず続けてはみた。けれど、やっぱりその事実は、心のどこかで黒い染みとなって存在しつづけた。
その染みがいつまでも消えないことに、ある時、ふっと絶望を感じてしまったのだ。
こんなにも気持ちが続かない、その程度のわたしは、いったい何がしたいんだろう。
そのころのわたしは、どうしようもなく自分の存在価値を求めていた。
自分にしかできないことがあるんじゃないかと、興味のあることにひたすら手を伸ばしていた。どこかに、自分の価値が発揮できる可能性が隠されているんじゃないかと信じていた。
学校の授業は、「なんとなく」だった。クラスで同じになった人と仲良くしたりはしていたが、なぜかいつも「わたしの居場所はここじゃない」感がぬぐえなかった。
サークルには毎日通っていた。それくらい、楽しかった。みんな快活で、ハチャメチャで、だけどやるときはやる、いい人たちばかりだった。敵わない、と思う人がたくさんいた。
だからこそ、わたしはこれを続けていて何になるのだろうと思ってしまったのだ。
カフェのバイトも、いかにお金を稼ぐかしか、考えていなかった。同い年代の仲間がほとんどいなかった。おとなの人ばかりだった。できるだけ大人しくして、いかに業務を効率よくこなすかにだけ集中した。
どこに行っても、自分より優れた人がいた。
自分より何十倍も能力があって、できる人がいた。
どこに行っても、わたしはだめ。
こっちに行っても、あっちに行っても、わたしは……
ああ、もう、なんだか疲れた。
人と自分を比べて、どう優っているか劣っているかをいちいち考えることは、相当なエネルギーを消費した。つかわなくていい余計な気までつかって、周りの人のことばかり考えて。
このままでは、どこに行っても自分が自分じゃなくなってしまう、そう思った。
どこか遠いところに行ってしまいたかった。
それで、わたしは文字通り「遠いところ」に行ってみようと決めた。
一人で。
安い考えかもしれないが、一人で行くなら北だろう、とぼんやりと思っていた。
昔から大好きだった『ハチミツとクローバー』の竹本君が頭に浮かんだからかもしれない。彼も一人で自転車を漕いで北に向かったのだ。そして、日本のいちばん北にある岬までたどり着いた。
それに、北には縁もゆかりもないわけではない。
高校の部活の遠征で、夏休みに北海道合宿をしに行ったことがある。
大学に入って最初の夏休みには、友達4人と2度目の北海道を訪れた。
でもまさか、3度目が一人旅になろうとは。
19歳のわたしが目指した先は、道東。
理由は単純で、北海道でそのエリアだけ行ったことがなかったからだった。
そこにある空港を調べたら、ひとつだけ、読めない文字で記されていた。
「女満別空港」――めまんべつ、と読むらしい。
5月のまだ肌寒い風が吹く女満別。
わたしは、最寄りの駅から電車に乗って、さらに北にある町に向かった。
がたんごとん、と揺られながら窓に目をやると、初めて見るオホーツク海がひろがっていた。
反対側には、今まで見たことがないくらい青々とした草木が茂っていた。
黄色い花が、かわいらしく咲いていた。
今までメガネでもかけていたのか? と疑うくらい、空も海も草木の色も、どこまでもまっすぐ目に入ってきた。
ここは地球だ、と思った。
とうとう遠いところまで来てしまったな、とわたしはやけに冷静だった。
女子がこんなところに一人で来るなんて、どう思われてるだろう……
そんなの、どうだっていっか。
もう何も考えずに、わたしはただ目に入ってくる景色を感じ取ることに集中した。
「知床斜里駅」から東への線路は、もう続いていない。
さらに東へ進むには、バスで行くしかなかった。
東京のように乗り換えがスムーズにいくはずはなく、駅の周りで3時間ほど、ぶらぶらと歩いて時間を過ごした。
意味もなく、近くを流れる川のほとりまで歩いてみたり。
「そんなところただの住宅街だろ」と言われるような、言ってしまえばふつうの町並みを、ひとつひとつ丁寧に見て歩いた。
ここの家にはどんな人が住んでいるんだろう。
屋根がこんなになってるのはきっと雪が多いからだな。
学生は登下校でこの広い畑のあいだを通り抜けていくんだろうなあ……。
あ、雲の切れ間から、光のカーテンが見える。
東京にいれば何も感じないようなことまで、心にすっと入ってきた。周りの目も気にせず、ただ自分の感情に身を任せた。
行きたい方向にいってみて、
行き止まりなら戻って、
ちょっと疲れたらそのあたりに座って本を読んで。
時おりそよぐ風にも、しっかり匂いがあることがわかった。
ああ、久々にわたしの心が生きている、と思った。
それはすごく気持ちがいいことのはずだった。わたしが求めていたもののはずだった。
なのに、なにかが引っかかっていた。
モヤモヤしたままバスの時間が来て、2時間くらい揺られながら知床半島に入った。
オホーツク海に面した、ウトロという漁港のある町で一晩を過ごした。そこから、知床半島の最東端まで行けるフェリーが出ていたのだ。
知床岬は、国立公園の特別保護地区として指定されていて、海の上からしか見ることができないらしい。
日本のいちばん東、最果ての地の迫力は、すさまじかった。
地図を見て分かるように、ウトロの北は、何もないのだ。
人間が、立ち入ることのできない場所だ。
海に浮かぶ、青々とした山の斜面は、ずーっと向こうまで続いていた。先の方に行くにつれて、地面が剥き出しになり、葉のない木々が目立つようになった。
手つかずの自然。人が立ち入れない、神聖な場所。ツキノワグマが、あらわになった斜面をのそのそと闊歩していた。
海は紺に近い色をしていた。船の下には、何百メートルもある深海が拡がっているのだろう。
もし、ここから落ちたら。
ぶるり、と思わず身ぶるいをする。
人間一人じゃどうにも敵うはずのない、壮大な地球がそこにあった。
わたしの心は確かに生き生きとしていた。
それなのに、さっきの違和感が、また、じわりと襲ってくるのを感じた。
どうしよう。どうすれば払拭できるか、分からない。
わたしはただ、斜面のディティールを目に焼き付けることに集中した。
この目の前の景色を感じ取れるだけ感じ取らなければ、こんなところまで一人で来た意味がないのだ。
「ここが、日本の最東端です」
アナウンスの案内で目をやると、そこには、申し訳程度の草木が生えた岬の上に、灯台がぽつんとたたずんでいた。
頑丈そうに見える灯台だけど……なんだろう。
どこか、それだけじゃないように見える。
その時こそ、海は穏やかだったが、きっと天気が悪くなれば、荒れ狂う波がその岬に打ちつけるのだろう。
そして、流氷が辺りを埋め尽くすのだろう。
風が吹けば、きっと身体をつんざくほどの寒さだ。
なんて、うら寂しい。
灯台は、いつも誰も寄りつかないような最果ての地で、「わたしはここだよ」と光を発しつづけているのだろうか。
こんなにも凄まじい自然の猛威がふるう、北の海の上で、たったひとり。
ああ、そうか。
あの灯台は、わたしだ。
人から遠ざかった場所で、自分は特別だぞと言っている。
でも本当は、そうじゃない。
寂しい。
寂しい。
寂しいよ。
灯台から聞こえてくる、声のない叫び。
モヤモヤの正体は、それだった。
わたしが一人旅で感じていたのは、どうしようもない「寂しさ」だったのだ。
それまで、何かひとつのことで誰よりも優れていることで、自分の存在価値を証明しようとしていた。
自分が敵わない相手がいると分かると、そそくさとほかの場所に逃げ出した。
いつまでも「わたしにしかできないことがある、それをすれば誰からも認めてもらえる」と思い込んで、自分がいちばんになれる場所を探し歩いていた。
誰かに理解してもらいたい一心で。
でも、
誰かって、
誰?
そうだ。認めてもらいたい人なんて、これといって、浮かばなかった。
わたしはもっと大きな意味で、「世間的に」認めてもらいたかったのだ。それによってしか、自分の存在価値を証明できないのだと、思っていた。
北海道に来て、いろんな景色を見た。
自分がどう思われてるかとか、くだらない余計なことなんて考えず、心のままに一人で歩いた。
けれど、行く先々で思い浮かんできたのは、近しい人、友達や家族だった。
その人たちと、この景色を一緒に見たいと思った。
一人になりたかった、なんて、嘘。
たしかに、一人で見ても美しい。
けど、共有できる人がいたら、この景色はもっともっと輝きを放つだろう。
ずっと私は、「いかに自分が何をするか」にこだわってきた。
けれど、ほんとうはそれだけじゃなかった。
「誰とするか」
ずっと自分の体裁だけしか目に入らなかったわたしにとって、
これこそが、欠けていたものだったのだ。
旅も、同じなのだと思う。
どこに行くのかだけが重要なのではなく、誰と行くか。
……いや、旅だけじゃなく、人生も同じなのかもしれないな。
* * *
こうして、わたしの旅のモットーは、形作られたのだ。
だから、今回の天狼院の旅部も、めちゃくちゃ楽しみなのである。
なにせ「ファナティック読書会 旅部」だ。
みんながみんな、本が好きで、語りたくてたまらなくて、やってくる。
そういう人たちは、みんな、感度が高い。
行く先々で、思いもつかない視点から、物事をとらえる人ばかりだろう。
そんな人たちと、バーベキューをして、紅葉の写真を撮って、美味しいご飯を食べて、さらに温泉に入れるだなんて、もうそれはそれは楽しみなのである。
12月5日、土曜日。
天狼院書店がお届けする「旅部」、
ぜひ、皆さんと一緒に、行きたいです。
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