言うまでもなく、味は五感のうちの「味覚」で感じるもの。けれど、けっして味覚だけで味わっているのではないということを、誰から教わったわけでもないのに誰もが知っています。
寒い冬の日に、食卓のなべ料理からもうもうとあがる湯気。暑い夏の日に、グラスの中で動く氷が奏でるカランコロンという音。一日を疲れて終えた帰路で、ふわっと鼻をかすめる、ご近所の台所から漂う煮物の匂い。人気のパン屋さんで買った食パンをかじった時の、くすぐったいほどの柔らかさ。自分が食べたものの話でなくとも、五感が刺激されると、その画は頭の中に鮮明に描かれます。
きっと誰もが、人生を振り返ったとき、一瞬にして心が占められてしまうようなたべものの思い出が一つや二つあるのではないでしょうか。そのたべものが本当に美味であればもちろんのこと、往々にして「思い出」という調味料、著者が言うところの「薬味」が効いているからだと思います。
人生を重ねれば重ねるほど、その薬味はピリリと効いてきます。人はたべものを味覚のみならず心で、長い時間をかけて味わっているのでしょう。楽しい思い出ばかりでなく、悲しい思い出を呼び起こすたべものも、この後の人生で熟成し味わい深くなると気づいたとき、私はこれからの生き方を問われているような気がしてハッとしました。
「いとしい」と感じられるようなたべもの、あなたにはいくつあるでしょうか。(S)
『いとしいたべもの』 森下典子/文藝春秋 文春文庫/690円+税
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